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三つ巴戦の中のモーツァルト



シア・ジュンスのミュージカル モーツァルト!が今や2週目の中盤部を越えました。 蓋を開けられた後,数多くの人々を驚かせているのは意外に彼の演技です。 幼い時期から,亡くなる時までモーツァルトの波瀾万丈な経歴を一貫した感情を持って作り出すこの新人俳優の力量に人々が皆驚嘆しています。 そこまで整えられなかった細部的演技テクニックは一回、一回を繰り返すほど恐ろしい速度で改善されていき,いまやっと4回目の公演を終えただけのこの俳優はすでに劇で自分だけのキャラクター,自分だけのスタイル,自分だけのアドリブを非常に自然にとぼけた雰囲気で表現します。 これは彼が引き受けたキャラクターモーツァルトと幼いころから音楽をしてきた彼との同質感にかなり力づけられたせいであることもあるかと思うがとにかく結果はかなりおもしろくて,劇的であり,感動的です。

このように彼の演技が光を放っているので,シア・ジュンスの音楽的な力量が表わす結果らがむしろ目立たないほどです。 しかし、それをのがしてはいけません。 なぜなら,このミュージカルとシア・ジュンスが作り出す音楽的結果はとてもおもしろいもう一つの劇であるためです。



三巴戦
このミュージカルは音楽的構造自体がだいぶおもしろいです。 劇的あらすじの展開と別個で,このミュージカルは音楽のジャンルを通じても劇的構造を実現させました。 特にキャラクター別に主音楽ジャンルが違うように配置されます。




お父さん-クラシック
大司教-ロック
ウェーバー夫人-ブルース


このようになります。 これが定規で測ったようにぴったり合致するわけではありません。 各キャラクターが実際に歌う歌の中には自然に色々なジャンルが混在されます。 ところで主なイメージと解釈は明らかの上のように区分されます。 保守的な価値観を持ったお父さんの性格と力を前に出す大主教,崩れていて、俗っぽいウェーバー家の特性を勘案すればこれは当然の結果です。 なのでこんなにも整理されます。



お父さん-クラシック-伝統
大司教-ロック-力
ウェーバー家-ブルース-逸脱


お父さんの派閥には姉ナンネルが含まれます。 ここでクラシックは'クラシック音楽'でなくクラシック的質感のポップ音楽ですね。
シカネーダーは? ウェーバー家側です。 ブルースの兄弟であるジャズ的感じを表わしますね。 コンスタンチェは両面性を持ちます。 これ本当におもしろくないですか?


モーツァルトの選択

さあ,本当におもしろい話が始まります。
すでに予想されましたか? まさにモーツァルトの選択です。 私の上の三ジャンルを抜け出る現代大衆音楽は殆どないです。 モーツァルトは路線を選択するべきです。 もちろんお父さんとともにする時にはクラシカルに,大主教とはロッカーのように,ウェーバー家とはブルースのように遊ばなければなりません。 すなわちモーツァルトは皆を包容しなければなりません。 ところがそれは理論だけ,実際のモーツァルト俳優は現実の人間で,主な自分の唱法があるでしょう。

多分三つ選択があるでしょう。 ヨーロッパのモーツァルトらは私が見るには,'ロック'を選択したようです。 それだけすごい力を吹きだしてそれがロックを選択した時のとてつもなく大きな魅力です。 しかも一つ,'ヨーロッパ ポップ'的な感性のポップ路線です。 ポップもまたマルチ ジャンルの大衆的な混合物だから,パワフルに押し通せば適用が可能です。 それでユーチューブのあるバージョンを聞いてみても,モーツァルトらはロックでなければポップ的ベースを持って,あるいは2種類を混用して曲らを歌い上げています。

'ブルース'は可能性で見ようとするなら明確に存在しそうだったのですが、なかったんです。 これは驚くべき事ではありません。 ブルースは米国音楽で私たちが知っていますが,事実白人らはかなり歌いにくい黒人音楽です。 白人らが初期ブルースを受け入れて巨大規模の大衆音楽市場を作ったのは事実です。 ところでブルースをそのままでは上手くできません。 'ロック'でとしては変形させ、(ロックは ブルースの2番目息子ぐらいなります。 最初はソウル)また米国各地方の白人らが'カントリー音楽'に変形させたが,'ブルース'自体をすることはちょっと苦しがります(米国ではそのような意味でカントリー音楽をブルースと時々等値させっますが,二つの音楽は明確に違います). それにもかかわらず,ブルースの途方もない力が大衆音楽を作り出したし,それを白人らをはじめとする全人類らが享有していますね。 ブルースの子供たちがロック,ソウル,ヒップホップ,R&Bですからね. 外孫子,男の内孫含めば今大衆音楽ジャンルのほとんど全部がブルースの子どもたちです。 そのように考えればすごいジャンルでしょう。 このジャンルの力をまともに話そうとするなら,3泊4日でなく一年中ずっと話しても足りないのですがこのように簡単に話して移ります。

ところでシア・ジュンスというボーカリストの独特だった点一つがまさにこのブルースの原形性を非常に強く持っているという事実です。 彼はすでにR&Bボーカリストと定評があるが,彼の声が持った力は現代のR&Bを消化することだけに終わりません。 60年代,いやその向こう側までも行く音色と力,弾性を持った声です。 それを東方神起の日本所属会社エイベックスは分るのか,だいぶ大衆的で伝統的なブルース風フレーズらを借用した音楽らを何曲か作りましたが、シア・ジュンスはメンバーらと共にそのような小節を間違いなく成功的に歌い上げました。 この人が持ったブルースの原形性は本当に珍しいほどです。 もちろん彼のボーカルが初期ブルースそのままではありません。 現代的特性もまた豊富に持っています。 とりわけこの人は韓国人だから,東洋的,韓国的特性も一緒に持っています。 



そのようなシア・ジュンスがモーツァルトを引き受けたので,初めて'ブルース バージョン'が誕生することもできるものです。 このミュージカルで可能性にだけ存在したブルース バージョンがというわけです。 もう少し具体的に説明してみるならば,この音楽の一番の特徴は声の弾性です。 ブルースの声の弾性はクラシカルな唱法とは違います。 これはそのまま簡単にR&Bボーカリストらを連想されれば良いです。 この弾性は力量あるポップボーカリストらはたいていすべて持っているからです。 すなわち,ブルースは声をはねます。 ブルースは拍子を押し引きすることが特徴なのに,重要なのはそれを意識的に押し引きしてはいけないという事実です。 そのリズムは'力'により決定されます。 あたかも球がはねるようにです。 初めて球を投げた力によって,球がはねます。 そのはねるバウンドの周期がそのまま拍子になります。 何人のいくつかの拍子をあらかじめ決めて入るゲームではありません。 簡単に話せばそうです。

とにかく,そのように声をはねるのに,そのような弾性は上で述べたように,適当なポップミュージックのボーカリストらはすべて持っています。 ところでここでまた重要なのは声の力です。 軽い球は簡単にはねます。 ところで石がはねるんですか? はねません。 石はそのまま落ちて地面にゆっくり打ち込まれます。 ところで,ブルースは石がはねるものです。 そしてその石の中には,人間のあらゆる苦痛がかたまって重いのです。 それがブルースです。 私があらまし作った比喩だが,そのように悪い説明ではありませんね。 そこでその石を主要に掘り下げたのが,ロックで,そのはねる動きを主要に掘り下げたのが,R&Bです。

5年前シアジュンスの声を初めて聞いたが-いや何?こんな子が,石をはねているのです。
(その当時感じをそのまま移したので'子'という表現は了解してください)

彼が持ったブルース的声にはその時から今までいつも感心してきたのですが,私どもが生半可に話すにはそれは'声自らの可能性'にだけ存在してきました。 ところで強力な現実化が先週から成り立ちました。 まさにこの作品です。 彼はミュージカル モーツァルト!を立派にやり遂げています。 彼は通常的にR&Bボーカリストで知られています。 ところでこのミュージカル モーツァルト!は、一般的なR&Bボーカリストがやり遂げることができる作品ではありません。 米国の有名なR&Bボーカリストを1人思い出させてみて下さい。 ちょっと若くて大衆的な歌手でね。 そして彼がこの作品をやり遂げることができるかできないか考えてみて下さい。 できませんか? これは途方もなく驚くことです。 公演後,発音問題だけ騒々しく話されたのがもっと変なのです。 

ところでブルース歌手はやり遂げることができるかと? 当然です! ブルースはロックの'父'です。 いくらでもします。 ブルースは一介ジャンルでなく,今のこの巨大な大衆文化を作り出して,音楽市場の主流を世界史的に逆転させてしまった途方もない力を持った本質的ジャンルです。 クラシックと互角に対抗馬を形成やり遂げることができる力を持ったし,ロックを産むことができる気概を持った音楽でしょう。

シア・ジュンスモーツァルト-コロレド大司教

だから,シア・ジュンスがこのミュージカルのモーツァルト! 位置に立てば本当におもしろくなるものです。 このミュージカルの音楽的構図が非常に躍動的で立体的に表現されることができるのです。 そしてそのことは成り立ちました。

公演をご覧になる方は,シア・ジュンスと大司教が音楽で互角に正面対立する二つの場面をよく見守って下さい。 これを後でヨーロッパ バージョンと一度比較してみて下さい。 ヨーロッパ バージョンでは,ロック-ロック構図です。 事実ロックもだいぶ多彩なジャンルなのに,偶然にも二つのキャラクターのロックが全部ヨーロッパ式ニュアンスになっていたのです。 それで似たロック-ロック構図です。 私には面白くありませんでした。 ところでシア・ジュンスと大司教の構図は,プルースロック(対決のためにシア・ジュンスもロック調で加速を一度するからです)-クラッシックロック(クラシックロックは事実概念がちょっと曖昧だがそのまま使います)の構図になるのです。 そしてその結果は? 本当に本当におもしろいです。 韓国ミュージカル界の実力派俳優らのミン・ヨンギ,ユン・ヒョンニョル大司教はそれなりの個性を持って本当に立派な声を出してくれます。 大司教らが声をガムのように挟み込む時,シア・ジュンスはまさにその'重い弾性'を引っ張りながら真っ向対立します。 対立する二人の声が明確に対比されます。 'しかし,あなたは私を支配することはできない'でシア・ジュンスが入れるグルーブを見て下さい。 その弾性の声の美学たるや...


シア・ジュンスモーツァルト-ウェーバー家族

ウェーバー家族はブルースです。 本当にブルースをするのではないが(応用ならない純粋なブルース音楽は事実いくつもありません),ブルースの味がかなり濃く出ているでしょう。 この組合わせで最もまぶしい課題は,まさにすでにすべての観客らに愛されている'便にまみれた豚の尻尾'です。 ブギウギ風のこのダンス音楽は,初期ブルースの直系ナンバーでしょう。 シア・ジュンスが歌うこの曲は,本当に億音がするほどです。 ブルース ボーカリスト シア・ジュンスの力は,この曲がはるかに直接的に証明するかも知れないでしょうね。 煩わしい説明必要なくて,そのままシア・ジュンスバージョンが'教本'です。 正確に話せば毎回毎回が教本です。 この曲に限っては,シア・ジュンスはずっとアレンジを見せています。 ああ,そのアレンジは本当に眩しいです。 毎回その曲のアレンジを聞く時ごとに,ブルース ギルダーの私たちはそれこそ感慨無量です。 ヨーロッパ バージョンSauschwanz Von Dreckenを一度探して聞いてみましょう。 そこでは,あたかも軽歌劇やボードビルの滑稽な小物のように解釈しました。 この差を知ってこの曲を鑑賞すれば本当におもしろいです。 



シア・ジュンスモーツァルト-お父さん

お父さんはクラシカルな雰囲気のバラードを主に駆使します。 ここでクラシカルだということは,クラシック音楽ともかすかに線を引くのだが,より広くスタンダードな唱法の音楽という意です。 すなわち,決まった拍子と流れにより秩序整然で物静かで静粛に歌を歌って持ち出すんです。 モーツァルトはこの劇で大司教とは'対決'と,ウェーバー家族とは'同調'と,お父さんには'服従'です。 それでお父さんのクラシックとスタンダードある歌を大体はついて行きます。 シア・ジュンスが,音楽を揺さぶらないで,比較的静寂なモードに行く時には間違いなく,私たちが上で少しの間言及した'韓国的特性'が出てきます。 

多分皆さんなじまれるはずです。 以前に彼がTVに出演してぺティ・キムの歌を歌いましたね? 当時ぺティ・キムをはじめとする私たち皆がどれくらい感心しましたか。 そして彼が移転時期に歌ったチョン・フンヒの'花畑で'も覚えていますか? それがシア・ジュンスのスタンダードな方式です。 まさに韓国的な'高雅さ'これでしょう。 これは本当に美しい唱法です。 

こういう美しくて濃いながらも明澄で感性豊富な唱法を持っているのはどこの国でも可能ではありません。 アイルランドの人々が持っています。 米国黒人らも持っていて,南米のどこの国らにもあります。 ひょっとして何か共通点が感じられられないですか? 悲しい歴史を持った国々が共通点です。 一般化することはちょっと無理です。 悲しい歴史自らの正義も相対的で,悲しい歴史があったのにそのような唱法を確実に発展させない国々もあるからです。 だがある程度の相関関係は当然のことでしょう。 とにかく我が国の人々が持ったその悲しくて高雅な感じは,すぐそば国日本や中国ではなかなか探せない感じです。 

いつかシア・ジュンスの'家族合唱'をインターネットで見たことがあるのですが,そこで彼のお母さんの歌を少し聞くことができました。 彼のお母さんのボーカルも本当に良いですよ。 重要なことはシア・ジュンスがお母さんを通じて,韓国歌謡の古典的美学も受け継いだのです。 音楽家の土壌と遺伝は非常に重要な要素です。 事実シア・ジュンスはSMから受けた唱法はない歌手です。 ユ・ヨンジンはあまりにも立派に韓国的なR&Bを作り出した歌手だが,シア・ジュンスの弾性の声はR&B的弾性の声でなくブルース的弾性の声です。 多くのトレーニングを通じてディテールは改善したかも知れないだろうがシア・ジュンスボーカルの原形は,幼い時期からすでに存在したものとみられます。 そういえば,こういう水準の歌唱は,初めっから'トレーニング'して育てられることができるのではありません。 

また戻って,とにかく,その東洋的高雅さに相変らず強力な嘆声と力を持ったまま歌うと,彼のスタンダードあるいはバラード ナンバーらが持つ力はそれこそ圧倒的です。 このような曲らでややもすると感じることもできる,退屈さをまったく感じる間がありません。 その極限状態を見せる部分が。 劇後半部,ウィーンに訪ねてきたお父さんとともに歌う小節で,その次続く'なぜ私を愛してくれないの?'です。 曲の前半部で感じられるその悲しくて切ない政調は-西洋ボーカリストらには絶対に探せない表現力です。 

今日はここまで話します。 残った公演らがまださらに多いですね。 公演見に行く読者様,全部楽しく観覧されるように願います。 見ることも多く,感じることも多いが,聞くことまたとてもとても多い公演という事を忘れずに、整えられた食卓の食べ物全部おいしく飽食して来られて下さい。

[piffania.com]




 

三つ巴戦の中のモーツァルト

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